ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM "Record of Memories"

本題に入る前に、まずは人生初のドルビーシネマについて記録しておこうと思う。

「ドルビーシネマってつまり何?」「音質の差だけでこんなに価格が変わるものなのね…??」と思いながら好奇心だけでやってきたT・ジョイ横浜の最前列。(丸の内はどうしてもチケットが取れず、横浜も最後まで空いていた最前ドセンの2席にギリギリ滑り込んだ)そして2時間半後、席を立った瞬間の感想。「ドルビーシネマ、ひょっとしてアイドルの映像コンテンツにとって最強の装備なのでは…?」見事にドルビーしか勝たんモードに突入して帰宅の途についた。

 

映画館ド素人が思うドルビーシネマの”良さ”

●東京ドームの広大な面積と観客動員数を体感できる

オーディオについても映画館についても全く知識のない素人のため、正直なところ「音質」についてはよくわからない。でも、そんな素人の私でも確かに感じたことがあった。それは「距離」である。客席に自分がいて、ステージには嵐が居る。
東京ドームを包み込むように沸きあがるオタクの歓声は、耳元に。
ステージの頂上で歌う彼らの声は、まるで遠くから響いてくるように。
歌声、オーケストラ、歓声といったすべての音と今此処に座っている自分自身の「距離感」を体感できる時間だった。距離を感じられるということは、同じ空間に存在している気分になれるということ。人間の身体は音からも空間を認識しているんだなぁ…と身をもって知った。座席数327席のシアターで5万5千人が沸く東京ドームを体感できる。初めての体験だった。

 

●圧倒的な「闇」の没入感で楽しむことができる

本編上映前に流れるご案内(?)で知ったが、「黒」の再現性が高いということもドルビーシネマの売りらしい。従来の映画では表現できなかった深い黒色を実現させるために、最新鋭機材の導入は勿論のこと客席、カーペット、手すりなど劇場内の設備を全てマットな黒で統一。画面への反射光を極限まで抑える対策が取られている。従来の黒とドルビービジョンによる黒を比較する映像が流れるのだが、違いは一目瞭然。「黒」の質で、映像はここまで変わるのか!と衝撃を受けた。
繊細に作られたステージ衣装が魅せる大胆な色使い。オープニングの真っ赤なスワロフスキーが放つ輝き。流れる汗は光を浴びて輝くということ。最初から最後まで、圧倒的な闇の中に浮かび上がる色彩に目を奪われた。「如何にして画面から没入感を得られるか?」このご時世に突入してからさまざまな映像配信コンテンツを見て一番の課題だと個人的に感じていたことが、ここに一つの解決を見た気がした。

※これは完全に余談だが、私の応援している菊池風磨くんは配信ライブでの演出について「画面が真っ暗になる瞬間があると、モニターに自分の顔が反射してしまう。そこで観客は醒めてしまうのではないか」という考えを持っていた。経緯も環境も規模も全く違うが、ドルビーシネマが黒の表現に最も力を入れているという解説を聞き、「ふうまくんの言っていたことはこれか~!」と妙に納得した。黒は大切。

また補足までに、T・ジョイ横浜シアター4最前列ドセンの感想も残しておく。
まず首は完全に死んだ。デスクワークの会社員にとってはなかなか珍しい角度で2時間半耐えることになる。単純につらい。しかし、そんな首の痛みを余裕で上回るくらい臨場感は最高だった。アリーナ席から見上げている感覚。観に行きたいけどもう最前列しか空いてないよ…という方がもしいたら、思っているより悪くないよと伝えたいです。ただ首は本当に数日終わる(おそらく人によります)

 

嵐が嵐のエンタメをやるということ

「今から嵐のエンタメやるぞ!」という潤くんの挨拶が、あの時間の全てだった。
舞台とかコンサートとかアイドルとか、そういった既存の枠組みを超えた概念としてのエンターテイメントに触れられる瞬間。私にとっての嵐は、ずっとそういう存在だった。さっきまでその手に持つ楽器で壮大な音楽を奏でていたオーケストラの方たちが、そのまま仕事道具である弓とかスティックとか拳を空に突き上げて次の歌に合わせて盛り上がる、ジャンルの垣根を超えた最高の音楽。いろんなものを観て、経験して、どれだけ想い出が増えたとしても。私が最初に好きになったのはこの場所だ。それだけは絶対に変わらない。

私が私になった理由を思い出すような、原点回帰の2時間半だった。


なかでも印象的だったのがラストに流れるスタッフクレジット。
撮影カメラ114台、担当したカメラのナンバーとカメラマンの名前を一人残らず全て表記していた。ここまで丁寧で愛があるクレジットを初めて見た。同時にこれだけ多くの人間が動くステージを創り続ける、そして中心に立ち続けるということがいかに精神力を消費することなのか、少し考えただけでもぞっとするほど恐ろしかった。

エンドロールに一瞬だけ映るその名前を持つ方々が、どれほどの時間を此処に捧げたのか。

あまりにも大きくなり過ぎたものをどうやって愛し続けるのか。
どうすれば愛される形を保ったままで、時を重ねることができるのか。

嵐が嵐を護るための試行錯誤の過程が今なのかもしれない、ぼんやりとそんなことを感じた。

普通にやっていたら変わってしまう。人は歳をとるし、建物は老朽化するし、花は枯れる。だから、時にエンタメは変わらないために意識的に状況を変化させる必要があるのだと思う。「続けるために形を変える」コロナ禍でよく聞くようになったこの言葉に、嵐は少しだけ早く気づいていたのかもしれない。

私は嵐のファンだったことがきっかけで今の職業に就くことになった。私が今応援している菊池風磨くんも、嵐の大ファンだったことがアイドルを志したきっかけらしい。
一瞬で人生が180度変わるような劇的なストーリーはまれかもしれないが、この公演に入っていたことが、あのドラマを見たことが、ほんの少し、5度くらいだけ生きる方向性を変えてしまうこと。そのたった5度の方向転換が何度も何度も重なって、いつの間にか人生を大きく変えてしまうこと。身に覚えがある人も多いんじゃないかと思う。
夢中になっているお客さんの表情や手作りの団扇がアップになるたび、そんなことを考えた。*1

楽しそうな声も、穏やかな笑顔も、好きなことを好きなようにやっている姿もその全てが本当に嬉しい。心から良かったねと思う。でも、もしも叶うのなら、またいつか必死な顔が見てみたい。いつでも綺麗なアイドルの、綺麗だけじゃない横顔。揺れる声とか流れる汗とか、きっと、どんなアイドルにも現場でしか会えない表情がある。

これが最後なのかそうではないのかなんて私にはわからないけど、少なくとも東京ドームに立っていたあの瞬間が、5万5千人の歓声が、彼らにとっていつまでも夢と楽しい時間の象徴でありますように。本当に微かでささやかな光で構わないから、このステージが人生の希望になっていますように。

この世界の何処かに、こんなに美しい時間があるのなら明日もたぶん生きていける。

性別も年齢も収入も住んでいる世界もなにもかも違うけれど、ステージへのその微かな希望だけは、ファンとアイドルが共有できる数少ない感情なのかもしれない。晴れ晴れとした表情でドームの頂点に立つ5人の姿を眺めながら、そんなことを思った。

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*1:あと単純にお客さんをがっつりアップで抜いた画が多くて驚いた。職場とか学校で大丈夫ですか…?

枯れても咲いたんだ ~「SZ10TH」感想~

 私が今まで体験してきたアイドルの10周年コンサートは「おかげさまで無事に大きくなりました!」という一種の通過儀礼であり感謝祭だったけれど、今回のSZ10THはまるで性質の違うものだった。どう見ても無事ではない瞬間が確かにあって、揺らいだ時期も存在して、それでもどうにか辿り着いたこのステージ。10周年を迎えたことをこの世の誰よりも本人たちがいちばん喜んでいるんだろうな、と思わせる時間だった。もしかして喜びというよりも安堵と言ったほうが近い感情なのかもしれない。ファンに向けてこの2021年に出来る最大限のパフォーマンスを届けてくれたと同時に、形や速度を変えながらも10年間一緒に泳いできたメンバーへの想いが感じられる瞬間が何度もあった。こちらを向いているのと同じくらい、隣を向いている時間が長かったんじゃないかなあ。今まで100%ファンに向けられていた感謝の言葉が、隣に立つメンバーにも向けられていたこと、お互いに支え合っている姿をこちらに少し見せてくれたこと、外向きでありながらもとても内向きな祝福がSZらしくて嬉しかった。

 オブジェもセットも銀テープもない、歓声も聞こえない、過去と比べたらあまりにも”足りない”だらけのこのアニバーサリーは、いつかまた元通りのコンサートを開催するためのひとつの通過点。この2021年に歩みを止めなかったことが、今回さまざまな事情で参加を断念した方に”次の機会”を届ける選択になると信じたい。

 足りないなんて言葉を選んでしまったけれど、狭くなってしまったのは世の中という水槽で、減ってしまったのは水という演出で、彼らは変わらずに全力で泳いで魅せる淡水魚でした。今年もとても楽しかったです。GWの思い出をありがとう!どうかオーラスまで無事に完走できますように。横アリお疲れ様でした!

風磨くんとonline

 2020年3月29日、25歳最初の風磨くんはどこか少し寂しそうに見えたことをよく覚えている。勿論これは私の主観に過ぎない話だけれども。「Johnny's World Happy LIVE with YOU」YouTubeライブ配信でオンラインに乗った風磨くんの姿。この日を境に全国各地でコンサートが届ける"空気"は"電波"へと変わり、"いつか"を願う終わりの見えない日々が始まった。

 

 情緒とか感情とか雰囲気とか。そういう目には見えないものを創ることが、掬い上げることが、とても上手な人だと思う。「センスとは普通の人が価値を感じないところに価値を判断できる能力であり、言い換えるなら他人には無い定規を持っているということ」という言葉を以前知ってとても感銘を受けたのだが、その言葉を借りると風磨くんは情緒のセンスを持っているひとだ。エモいセンスとも言えるのかもしれない。そんな風磨くんの瞳に、瞬く間にエンタメがオンラインに移行していく世界はどう映っていたのだろう。技術の進化によって限りなくタイムラグの少ない安定した生配信が実現した今でも、空気は電波を越えられない。この時期の風磨くんは「リモート飲み」や「オンラインライブ」「SNS」に関する質問に対してあまり手放しで前向きな言葉は選んでいないという印象もあった。「この瞬間はもう二度とこない」「一期一会」を誰よりも大切にしているひと、至極自然な感情だろう。こうして私は配信のたびにその瞬間を全力で楽しみつつも、一方で"風磨くん"と”オンライン”の親和性について度々考えさせられることとなった。

 風磨くん自身のパフォーマンスを含め彼の創るコンテンツに惹かれたファンとして、風磨くんがやりたいと望んでいる表現ができるだけその手触りと温度感を保ったまま受け手まで届くような環境が欲しい。ずっとそう思っていた。そして、今まで間違いなくそれは”現場”という空間だったのだ。

 

 昨年とても印象的だったエピソードがある。勝利くんがラジオで語っていた風磨くんの言葉だ。「配信ライブで画面がブラックアウトする瞬間があると、配信を見ている自分の顔がモニタに反射してしまう。その瞬間にお客さんが現実に置いていかれるかもしれない」というようなニュアンスだった。これに気付くのは、観客が現場に何を求めているか把握しているということではないだろうか。世界観に没頭したいという願いを、風磨くん自身が実感として知っているということ。アイドルが好きなひとがアイドルを職にした強さ。新しいプラットホームを分析と思考で自分のものにしようとする姿。らしいなあ、と感じた。そして数回に渡る延期・中止を経て配信に切り替わったライブツアー「POP×STEP!?」では画面自体にエフェクトをかける演出など、風磨くんのままで、風磨くんらしくて、そして新しい表現が随所に見受けられた。風磨くんご本人はあまり具体的なオンラインへの配慮について言及することはなかったように思うが、配信ライブをたくさんたくさん観て研究したということが言葉の端々から伝わってきた。風磨くんとオンラインの可能性が少しずつ見えてきた時期だったように思う。

 

 そして2021年3月6日、「Johnny's Village」に登場した風磨くん。25歳最後の風磨くんはずっと笑顔で、とにかく楽しそうで、オンラインをめいっぱい満喫していた。これは主題とは少し離れてしまうが、私が思う風磨くんの好きなところがたくさん詰まっていた。きっと一般企業で勤めていたとしても順調に出世していたんだろうと思わせる頭の良さと立ち居振る舞い。打算も計算も出来るのに、ひとよりずっと情緒が豊か。そんな、社会人と表現者の両軸を生きている風磨くんを感じられる素敵な時間だった。

 空気は電波を越えられない。ふんわりとスモークがかかった会場独特の湿度を、あの心地よい疲労感を、画面を越えて共有することはこれから先もまだまだ難しいだろう。でも、それでも、こうして一年が経とうとしている今、画面越しでも私はちゃんと嬉しかったし、楽しかったし、切なかったし、この時間が終わることが寂しいと確かに感じられた。この心が震えるような感覚は現場で感じていたそれに限り無く近いものだなあと、『Heavenly Psycho』を歌う風磨くんを見つめながらぼんやりと考えていた。

 先述の演出に関するエピソードやきっとたくさんたくさん考えてくれたであろう選曲、時間も距離も電波も越えて手元に届いた銀テープ。この一年間の至るところに散りばめられた風磨くんとSexyZoneの思考の欠片たち。

 ああ、共有はできなくても、共感はできるのかもしれない。それが、オンラインライブについて一年間考えた末に私が辿り着いた答えのような形をしたものだった。

 

 2020年をただただ喪っただけの年にしなかった、しないためにきっと考え抜いた風磨くん。そんな風磨くんが好きだなあと数回のライブ配信を通して改めて実感した年でした。

 風磨くんがそうであるように、私も願うことを止めずに今日も"今日"について考え続けようと思います。 25歳最後の夜に笑顔だったこと。オンラインのお陰でその姿を見られたこと。とても嬉しかったです。

 ”いつか”を願い続けるこの日々を、いつか同じ空気を共有しながら語ることができる日が来ますように。風磨くんが四季を満喫して、横浜アリーナを思いっきり走ることが出来る世界になりますように。

 風磨くん、26歳のお誕生日おめでとう!

 

何処にも行けない世界にドラマを ~SixTONES 「1ST」感想~

 「アイドルとは思えない音楽性の高さ」という文脈はある程度語りつくされた感がある2021年。近年のアイドルソングが標榜する音楽が王道ポップスという枠を超えて実に多彩な色を奏でていることは、音楽シーンに全く詳しくない私ですら肌で感じている。

 でも、そんな時代に、それでもあえてアイドルが放つ音楽性の高さを宣言したくなるくらい凄いインパクトを持つアルバムに出会ってしまった。

 

 SixTONES ファーストアルバム「1ST」

 

 たとえば「ST」は自問自答を繰り返しながら現実に挑む挑戦者。

 「Curtain Call」は終わった恋を優しく手放そうとする穏やかな大人の男性。

 大切な人と楽しむほんのすこし刺激的で甘ったるい朝「Coffee&Cream」に、今宵ナイトクラブのフロアを制する覇者「EXTRA VIP」。

 そしてお互い頭も勘も良くて、だからこそ気づいてしまった恋愛の終わりを描く「ってあなた」。

 

 このアルバム、どの曲を取っても映像が目に浮かぶのだ。耳に届くひとつひとつの音色にストーリーがある。試しに他の方の感想を検索してみたところ、歌詞解釈についての議論がとても多く見受けられた。それもきっと多くの人の脳内にドラマが生まれた証ではないだろうか。

 

 まず前提として楽曲のストーリーを想像させる表現力がずば抜けている。長いJr.時代を現場重視、ビジュアルパフォーマンスの世界で戦ってきた彼らが地道に踏んできたであろうステージの数を感じさせるスキル。

 そしてなによりお洒落で上質な楽曲にストーリーを与える、圧倒的な「主人公感」。この天性のヒーローポジションこそが彼らの魅力なのだと思う。カースト上位とか一軍と呼ばれるような誰かの上に立つことで成り立つ相対評価のトップではなくて、誰と何処に立っていてもここが世界の真ん中だと思わせてくれる絶対評価の主人公。

 ずっと“少女漫画の王子様”みたいなアイドルを応援してきた私にとって、SixTONESが身にまとう“少年漫画の主人公感”はとても新鮮だった。

 

 活気を失った日常に突然現れたパラレルワールドみたいなCDを窓のない寝室で何度も聴いたこと。これが、2021年最初の想い出。

 素敵な歌も、お洒落な音も、この世には星の数ほどあるけれど。こんなにも“映像を想像させる音楽”は、きっと稀有な存在。

 SixTONES「1ST」は、アイドル史上最高にドラマティックなアルバムだ。

 

www.youtube.com

 

 窮屈なこの世界。何処にも行けない気持ちをどこかに連れて行ってくれる特別な一枚となりました。ぜひ聴いてみてください。

2020年11月、東京の観劇事情と「エレファント・マン」感想(後編)

小瀧くんのこと

 演出が森新太郎さんで、演目が『エレファント・マン』。
 そのふたつの知識だけを握りしめて着席した。座長の小瀧望くんに関しては、私の応援している菊池風磨くんのお友達のとにかく顔の造形が美しい関西出身のアイドルの方という認識しか持ち合わせていなかった。”アイドルが演じるエレファントマン”に興味があるというただそれだけで此処まで来てしまった。

 膨張した頭部に著しく変形した身体、全身を覆う悪臭、杖無しではまっすぐ立つことすらできない自らの肉体を「奇妙な見世物」として売ることで生計を立てる青年。それを演じる、現役アイドル。「人と異なる外見を売る」職業の残酷さを突き付けられるキャスティング。「見た目の綺麗な人に演じさせたい」と思って小瀧くんにオファーしたという森さんのインタビュー記事を見かけてなんだか納得した。”小瀧くんを選んだ”というその意図に演出のテーマがすべて詰め込まれているように感じた。

 人間の残酷な感情だけを煮詰めて、滝行の如く頭から3時間ぶっ掛け続けられるような作品。原作の大まかなストーリーだけふんわり覚えていて、割とフラットな気持ちで挑んだ私でさえ目を逸らしたくなるようなシーンも多々あった(率直に言うと精神的に相当揺さぶられた。今でもたまに思い出してぼーっとしてしまう)それくらい小瀧くんがエレファント・マンだった。彼の演技を拝見したのは初めてだったが、「こんなところにこんな人がいたなんて…?」という”出会ってしまった”衝撃が凄かった。

 常に苦しそうな呼吸音を発することだけでも体力を使いそうなのに、メリックの肉体を表現するため歪んだ表情と右腕が硬直して膝が曲がりまっすぐ立てない体勢を最初から最後まで保ち続けて1か月走り切った小瀧くん。あの体幹バランスが全く取れなさそうな不安定な姿勢でも発声が安定していてラストシーンまでぶれないのがまず凄い。そしてそれらの身体的演技に圧倒されたことを大前提に、苦悶の表情で発する言葉の数々が刺さって刺さってもうとにかく辛い。あんなに美しい人を全くかっこいいと思えなくなる。ただただ可哀想でたまらなくなるくらい、もういいよ止めてくれ!と叫びたくなるくらい、辛い。「かっこよくて輝いている自担を観に行く」というモチベーションだけでは多分もう座って居られないだろうなと感じた。裏を返せばそれくらいメリックが憑依していた。圧倒的な孤独と寂しさの演技。本当に素晴らしかった。

 何よりも、観劇後に読んだ小瀧くんのインタビュー記事が「やっと舞台をやれる!嬉しい!これはやらないという選択肢はないなと思って飛びついた」という純粋な言葉で満ち溢れていて、この無邪気で明るい姿勢で取り組んでアウトプットがあの演技だったということに心から震えた。きっと真っ白なひとだからこそ真っ黒を表現できたんだろう。「かっこよくて輝いている自担を観に行く」というモチベーションが難しいと前述したが、彼のファンの方々にとってはそれ以上に「自担が”かっこいい”というアイドルの命すら削りながら放つ才能をこの目で見届ける」最高の時間になったのではないだろうか。(勿論、メリックを終えてカーテンコールに現れた『小瀧くん』は瞬きを忘れてしまうくらいかっこよかった。圧倒的に舞台映えするスタイルの良さが印象的だった)

 

作品のこと

 「慈悲深いことがこんなに残酷なら、正義のためにはどんなことをするんです?」

 見世物小屋から解放し、住まいや食事や人との交流を与え、一般的とされる幸福のフォーマットにメリックを近づけてあげることで自らの「慈悲深い」行動に自尊心を満たす人々。一方で、学ぶ機会を与えられて成長すればするほどに自らの決定権の無さを突き付けられるメリック。場所が汚い小屋から快適な病院の個室に変わっただけで、やっていることは見世物小屋のときと何も変わらないんじゃないかという問い。延々と回り続ける回転舞台が閉塞感をうまく表現していて、「これは考えなければいけない問題だ」という感情を呼び起こしてくれる。ラストシーン、メリックは部屋の隅のベッドで眠りにつく。頭部が著しく変形している彼にとって、普通の人のように横たわってしまうことはすなわち気道圧迫による死を意味する。人生のすべてにおいて決定権を奪われた人間が自分の手で唯一選び取ったことが「極めて普通の行動」であることの重さ。ただベッドで眠るだけの無言のシーンがこんなに胸がつぶれそうになるほど苦しい。でも同時に、「では彼にとってどうすることが幸せだったのか?」と聞かれると私にはわからない。たとえそれが残酷な自尊心であったとしても、ただの病院の研究対象であったとしても、周囲の人々のお陰で清潔な環境で満足な食事を与えられて過ごすことが出来ていたのは事実であって。彼にとってこれ以上の幸せがあったのだろうか。

 「考えることを放棄するな」と言われたような気がした。そんな作品だった。2020年唯一の観劇がこの作品で本当に良かったと思う。

 

最後に

 感想やレポを残すことが苦手な私がここまで頑張って書くことができたのは、「配信をひとりでも多くの人に観てもらいたい」というモチベーションがあったからだ。

 「エレファント・マン」動画配信のお知らせ

■配信日:12/5(土)18:00~  ※見逃し配信:12/6(日)18:00まで

■視聴チケット価格:一般 4,000円
■配信サイト:Johnny’s net オンライン(国内配信のみ)

 https://online.johnnys-net.jp/

  もしよかったらぜひ観てみて欲しい。 シンプルに、いろんな人の感想を聞いてみたい。

 レポートとも感想ともつかない散文をここまで読んでいただきありがとうございました。

2020年11月、東京の観劇事情と「エレファント・マン」感想(前編)

 先日、世田谷パブリックシアターで「エレファント・マン」を観劇した。おそらく私にとって今年唯一の観劇になるであろうこの作品。劇場に用意された自分の座席に座る、ただそれだけのことがこんなにも遠くなってしまった今年。

 結論を先に書いておくと、本当に素晴らしい舞台だった。きっとどんなタイミングで観ていたとしても一生心に残る素敵な作品と、よりによってこんな2020年に出会ってしまった。それが幸か不幸かはまだわからないけれど。

 

2020年11月の感染症対策と観劇の記録(東京都世田谷区)

 私がこの舞台のチケットを取ったのは2020年9月12日。世田谷パブリックシアター会員向けのオンライン先行販売だった。予約画面上で座席を指定できる(映画館のチケット予約と同じような)システムでこの時点では「1席飛ばし」、いわゆる市松座席での販売が行われていた。当然、2連番を指定しても間に1席空いている図が画面表示される。映画館の1席飛ばしは既に経験していたので「なるほど、劇場もこんな感じなのか」と思いながら確定ボタンをクリック。2020年初めての現場を手に入れた瞬間だった。

 そして9月19日、イベント人数制限の規制緩和

大声での歓声・声援等がないことを前提としうるもの(クラシック音楽コンサート等)については100%以内、大声での歓声・声援等が想定されるもの(ロックコンサート、スポーツイベント等)については50%以内とする。

 劇場は前半の「大声での歓声・声援等がないことを前提としうるもの」に該当することが発表され、演劇については観客数の制限がほぼ撤廃。センターステージ配置の演目で座席追加が難しそうだったシアターコクーンやご高齢の方の観劇が多い歌舞伎座などが1席飛ばしを継続する一方で(歌舞伎座は11月現在も市松座席を継続中)、公演中の演目の追加席販売を行う劇場も出てきた。

 9月24日、「エレファント・マン」追加座席の販売決定。感染症対策を十分に取った上での全席稼働が再開されることに。翌日9月25日に劇場会員向けの追加席先行販売、26日に一般向けの追加席販売が行われた。

 規制緩和の発表から追加席販売までのこのスピード感、チケット販売関係者の方は本当に大変だったと思う。さらにこの舞台に関しては”1席飛ばしを取りやめたことが不安な方”を対象とした払い戻しにも対応していた。規制緩和のタイミングで追加席販売を行った演目はたくさんあったが、”追加席を販売することによる払い戻し”は私の調べた限り「エレファント・マン」だけだった。

 

 そしていよいよ観劇当日。まずは消毒、そしてチケットをもぎって入場。紙の受け渡しと近距離接近による感染リスク対策のためチケットは自らの手でちぎったあと半券を回収ボックスに入れる形式。きちんと対策が考えられているんだなという印象を受けた。

 ただし一歩足を進めると、少しぎょっとする光景が広がっていた。客席開場前、ロビー開場段階で結構な密状態が発生していた。客席開場を待機する方々、お手洗いに並ぶ列、グッズに並ぶ列…都知事が見たら卒倒しそうなレベルの最早懐かしささえ覚える密。きっと万全の換気が行われているはずなのだが、客席開場まではその様子を確認することも難しいほどの混み具合だった。(スタッフの方はとても丁寧に対応されていたし、もう劇場の構造上これは仕方ないのだろうけど)

 やっとの思いで自分の座席に腰を下ろす。席順は私、知らないひと、そして友人。前述のとおり1席飛ばしから通常稼働に戻った際に連番のあいだの座席が全て追加席として販売されたため、このような不思議な並びが至るところに散見された。私と友人のあいだに座られた方はとても感じの良いお姉さんで、さりげなく会釈してくださったり荷物を避けてくださったりと気を使って頂いてとても有難かった。

 

 結果として観劇から2週間以上経っても発症することなく、勿論公演も続行されているのでこうして記録を残すことにした。2020年11月に東京都内で観劇した感想として、恐らく現時点では「開演ギリギリに到着して速やかに自分の座席に直行すること」がいちばん有効な対策ではないかと思う。できる限り人が密集しないように入場時間は自分で調整すべき、という学びを得ることができた。(帰りは規制退場に従いましょう)

 正直まだまだ不安な点もたくさんある。その一方、前例のない事態に対する劇場側の試行錯誤も身を以って体感した一日。幕を上げるために変わらないといけないのは劇場だけではない。観客側も出来る対策は徹底しなければならないなと改めて思った。

 

 なんだか前置きがとても長くなってしまったので、舞台の感想は後編に続きます。

アイドルが歌う"自問自答" 〜SexyZone「NOT FOUND」感想〜

 息苦しいほど切実な焦燥感を、お洒落なサウンドアレンジとデザイン性の高いアートワークでパッケージして届ける。着飾ることに器用で伝えることに不器用な“5人らしさ”が昇華された楽曲。それが、NOT FOUNDを初めて聴いたときの感想だった。

 音楽に全くもって詳しくない私でもわかるくらい華やかな音で、聡ちゃんも特典映像で言っていたように「お店でかかっていそう」なほどBGM的雰囲気の高い歌でありつつ、とにかく歌詞が鋭角に心を刺してくる。私はSexyZoneを“自問自答”を歌うことが出来るアイドルだと認識していたけど、今回は本当に自問自答の極みのような楽曲を与えられたなと思った。

 もちろん初見の人がスポットCMや歌番組で見かけたときのトリガーとなるような「カラフルなMVでカワイイ」「亀田誠治さんの編曲なの!?」という楽しみ方もきちんと用意されている。1枚のCDを手に取ったひとりひとりが様々な読み解き方ができることが彼らが創るコンテンツの魅力だと思う。

 

  “誰でもないよ 誰でもないんだ 自分で望んだ世界だ”という聡ちゃんのパートから始まる落ちサビが印象的なこの曲。それぞれに向けた当て書きなのかとすら感じられるほどメッセージ性の高い言葉が続く。きっと心を動かされた人は多いと思う。私だってもちろんその一人だ。

 正直なところ、最初は少し戸惑う気持ちがあった。この曲に対してというよりも、ステージ上のパフォーマンス以外の部分を消費することに、そしてほぼ無意識に消費してしまう自分自身に、私はずっとわずかな違和感と罪悪感のようなものを感じていた。 

 人間関係やその人の生きてきた背景が時としてコンテンツとなるこの時代。「アイドル」はそれが特に顕著な職業で、中でも私の応援しているSexyZoneはバックグラウンドの紆余曲折がコンテンツとして消費されがちなグループだと思う。生身の人間が抱える葛藤を、現在進行形の誰かの人生を、何の責任も取れない私が「感動した」の一言で消費していいのだろうか。

 そんな「バックグラウンドを消費している罪悪感」と向き合うきっかけになったNOT FOUND。私の考えを変えてくれたのは先日行われた配信ライブのアフタートークだった。先述のフレーズについて5人が言及していた。“誰でもないよ 誰でもないんだ 自分で望んだ世界だ"、そうやって「自分に言い聞かせながら歌っている」。聡ちゃんは確かそんな風に言っていた。自分たちと重なる部分がある歌だというニュアンスのことを5人とも話していたと記憶している。

 なんて優しくて、綺麗で、強い人たちなんだろう。こちら側が勝手に消費してしまっているとばかり思っていた、いつのまにか"ドラマ"みたいになってしまった"何か"を、彼らは自らが戦う武器として掲げて生きる道を選んでいた。さまざまな背景も何もかも全て含めて、SexyZoneが今このタイミングで歌うことによってNOT FOUNDという楽曲は初めて完成する。彼らが自らの置かれた背景を表現の糧にすると決めたのなら、こちらはその決意を応援したい。素直にそう思うことができた。"アイドルを愛してアイドルになったアイドル"であるSexyZoneの、覚悟に触れた瞬間だった。

 

 ここ最近のSexyZoneコンテンツの特徴は"センス"と"エモーショナル"に在ると感じていて、NOT FOUNDはまさにそれらの要素を際立たせた彼らの名刺のような一曲だと思う。個性豊かな収録楽曲は勿論、トロンプルイユと平面の青空が印象的なMV、CDジャケットに施されたギミック、ホームビデオみたいに不器用で暖かくて楽しい特典映像たち。近年の彼らのコンテンツの魅力を詰め込んだ"現在"のSexyZoneを知ることができる1枚。「代表曲」が売上によって定義されるものならば、きっとNOT FOUNDは「象徴的な曲」となるはずだ。(もちろん代表曲になってくれたらとても嬉しいけれど)

 大好きだからできるだけ傷つかないで欲しい、でも、そうやって立ち向かっている姿がいちばん美しいことも私は知ってしまったから。どうか彼らの存在証明がたくさんの人の手に届きますように。"夢のまた夢"の果てにある新しい景色を、いつかこの目で見られますように。

 「NOT FOUND」発売おめでとうございます!

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